自分はヒトだけど人「間」じゃない、と表現するとしっくりくる。自分にはヒトとヒトの間にあるものが欠けている。

自分はアスペルガー症候群かもしれない。「かもしれない」と書いたが、自分では確信している。
別に専門家の診断を受けたとかそんなこともない。自分がずっと感じてきた周囲との間の違和感を括るための名前が与えられるのならそれで十分であり、それが世間一般の基準と照らし合わせて厳密にどうなのかということはさして問題ではない。
もちろん、こうして他人が読める文章にするときにはそれが問題になる。だからこの文章はアスペルガー症候群の患者が書いたものではなく、自分がアスペルガー症候群だと妄想するヒトが書いたものであることを予め断っておく。
アスペルガー症候群というのは、知的障害のない自閉症のことなのだが、自閉症という言葉自体が誤解されているものだけに説明が難しい。
共感することができないせいで空気が読めなかったり、他者と日常的な会話が成立させられない、くらいに思ってもらえればいい。分かりやすいところでは、言葉をその場の状況などを無視して言葉通りにしか捉えられない傾向があって、そのせいで嘘や冗談が通じない、あるいは通じにくかったりする。
症状、状況によっては社会的に生活が困難になり得るために障害として定義されているが、障害として認識されにくいために発見されたり自覚しないまま悩みを抱えるケースが多いらしい。
自分の中でこれまでずっと抱えてきたコミュニケーションの違和感などが、「アスペルガー症候群」をキーワードにすることではっきりしたのでこの機会にまとめて吐き出してしまいたい。

周囲の人間の行動を見ていると、自分は無意味を感じることがしょっちゅうある。

最近アスペルガー症候群の先達の書いた自伝的なものを読み、自分のこれまでのことと照らし合わせてみた。他人が無意味な言動をしていると自分が感じるとき、その人間たちは彼らの間で「何か」を共有しようとしているのだと想像した。他人と何かを共有することに価値を感じるのが一般的なようだ。
それは多分、他人に対して感情を抱き、抱かれること。そしてその背後にある文脈を理解すること。
自分はそこが欠けている。共有したいという価値観がないし、共有の仕方も分からない。
だからたとえば、自分は他人に頼ることと迷惑をかけることの区別がいまいちつかない。他人の手を煩わせるという点で二つは一緒で、それ以外のどこに違いがあるのか分からない。
一言言葉を発するたびに、自分の中でその正しさを確認する自分がいる。
言葉には正しさがなければ意味がない。でも、周囲ではその意味のない言葉がいつも飛び交っている。何か意図があるらしいけれど、その意図とは何なのか分からない。
そんなふうに自分と他人との間にどうしようもない違和感を感じてきた。
それを埋めなければ自分がヒトでなくなってしまう恐怖にずっと怯えていたように思う。と同時にその違和感の探求はなによりも自分の知的好奇心を刺激した。
幼い頃、自分の興味は人間の世界の外に向けられていたけれど、高校の辺りから認知心理やらなにやら人間の方に移ってきた。きっとそれは自分と周囲との間の違和感を自覚するようになるのと同時だったのだろう。恐怖と好奇心は裏表、それが結びついたのならそこを指向しないでいられるわけがない。

ずっと人間になりたいと思っていた。それが無理ならせめて人間に擬態していたい。

自分はこれまで他人の真似をして生きてきた自覚がある。それでも自分は周囲から割と個性的な人間だと見られていると感じる。それは自分の真似が、擬態が、失敗し続けているという証拠だ。
他人が当たり前にしていることをできない自分はヒトではないのかもしれないとずっと考えてきた。自分の中はからっぽだ。他人の真似をしなくても周囲の当たり前を当たり前にこなすことのできる「自分」がずっと欲しかった。周囲に自分がヒトではないことが明らかになるのが怖かった。
だから自分は失敗をひどく恐れるようになり、おかげで自分は小器用にはなったと思う。大概のことはほどほどにこなすことができると自負できる。コミュニケーションの問題だとすら分からなくて、あらゆる失敗が自分が比とではないことの証拠になり得る気がしていたのだ。
しかし、肝心のコミュニケーションに関してはさっぱりだった。必要に迫られたときに言葉に詰まったり、受け答えがちぐはぐになったりしないよう気をつけられるようにはなっても、他人が普通にしている日常会話をこなすこと(楽しむものらしいですが)はできないし、人に話したいと思うことがらもない。話すために話すという行為が自分にはどうしても理解できなかった。今なら理解するようなことではないと思えるけれど、ずっとそれがつらかった。
アスペルガー症候群」という言葉がありがたいのはそれが人間のカテゴリーに含まれているからだと思う。自分が人間かどうかを悩んできた者にとって、自分が病気なのか障害者なのかというレベルのことはむしろ受け入れやすい。コミュニケーション能力を持つことがヒトであるための必要条件だと思っていたのが、アスペルガー症候群の診断基準はそうではないと示してくれる。おかげで自分は人間でなければならないという強迫から自由になって自分を見つめ直すことができた。

この文章を公衆に晒すかどうか、これを書いている今、悩んでいる。

晒したくない理由は明白で、今まで自分を人間として取り繕ってきたことを真っ向から否定することになるからだ。擬態はだんだん上達してきたとはいえ、正直うまくいっていない。ここ数年自分の精神状態を記録しているけれど、周期的に浮き沈みしている。元気になっては完全な擬態を目指し、疲れては鬱になるという繰り返しだと思う。限界を感じている。
だからといって自分がヒトでないかもしれないという恐怖は消えてはくれない。人間失格は他人事ではない。不条理だと思うけれど。
そしてその不条理こそが晒す理由だ。
どんなに頑張っても自分と他人との間の違和感は消えない。そうである限り擬態は擬態。他人と関わって一言発するたびに自分の欺瞞を指摘する自分がいる。自分が人間だと信じるためにコミュニケーションをするなんて馬鹿げてる。だからそれを終わりにするために、他人から見えるところに自分の欺瞞のない説明書きを置いておく。そうすればもはや欺瞞をする意味もない。
こういうことを書くと「結局、かまってほしいだけじゃん」みたいに切って捨てられたりもするんだろうと思う。それが全てなら晒す意味もないけれど、そんなこともないだろう。
というわけで、晒してみる。
今までだって恥ずかしい文章は何度か晒してるわけだし、今更一つ増えたところでどうと言うことは、あるけど。
ずっと前、このブログにMADを作る理由を書いたことを思い出す。

自分は動画を人に共感してもらいたくて作っていた。

自分がMADを始めたのも他人をまねてのことだ。共感を得られる動画を作ることで、人間になりたかった。書いたときはその気持ちに間違いはなかったけれど、今の自分はもうこうは書けない。自分にとってMADを作ることの意味は変わってきていて、もう以前のような作品はきっと作れない。以前は自分には感じ取れない何かを、幽霊を捉えようとするように、補おうとして作ってきた節がある。10k再生を超えた「White Lie in Black」はきっとその何かを捉えたのだろう。今の自分はもう全く違う方向を見ていると感じる。

自分は日々幻視するアイドルを目に見えるものにすることに価値を見いだすために動画を作る。他人に見てもらえれば嬉しいし、上手いと言ってもらえればもっと嬉しい。でも、それ以上に自分が納得して満足して見ていたいものを作りたい。

これで何が変わるのかは自分でもよく分からないが、これが今の偽らざる気持ちだ。