人生の孤独と「神聖にして侵すべからず」
※この文章はPULLTOPの18禁ADVである「神聖にして侵すべからず」について書いています。致命的にネタバレを含むので注意して下さい。
「神聖にして侵すべからず」は去年プレイしたエロゲの中では最も印象に残ったゲームだった。年末のコミケの準備に追われる中を、それでも合間を縫ってプレイした去年最後のゲーム。そのことを差し引いたとしても、一番印象に残ったゲームだったのだ。そして、強烈な印象を残したのとは裏腹に、自分にとってこれがどんなゲームなのか落とし込むことの出来ない、どう語っていいのか分からない、そんなゲームでもあった。
だから永倉氏とうぃんぐ氏が冬コミケの新刊「ぼくらのあいした江古田」の中で「神聖にして侵すべからず」について書くと知って、とても楽しみにしていた。
この文章はその記事を読んで触発されて書くもので、自分のこの作品の印象をまとめたものであると同時に、ある意味で二人が書かれたなかで提示された問題に対する自分なりの答えでもある。
「我は猫庭の女王であるからな」
瑠波のシナリオのテーマは「王権の探索」。
女王を名乗りながらも、瑠波の手に王権はなく、それにもかかわらず女王として振る舞わなければならない。それが瑠波の抱える苦しみだった。
実は瑠波の手には王権はある。ただしそれは瑠波と隼人の二人だけの、もうひとつの王国のものなのだ。この王国の二重性こそが瑠波を苦しめていたのだけれど、瑠波が実際に王国を終わらせようとするまで、表に現れることはなかった。
「そして我は、女王では無い」
かつて隼人は瑠波を女王と認め、その献身によって王権を与えた。
瑠波は隼人を解放するためにその王権を手放すことを決意した。
王国というどこにもないゆりかごの上にできた二人だけの王国。瑠波はそれを終わらせることを願った。
しかし二人には二人だけの王国と、1300年続いたファルケンスレーベン王国との区別がついていなかったのだ。王国は何をもって王国たり得るのか、王国を終わらせるために瑠波と隼人の二人はそれを探索する。
そして瑠波は最後に王権を見つけだす。それは彼女が隼人と二人でやってきた「茶番」そのものだったのだ。二人きりの王国は、小さくとも、確かな王国だった。だからこそ瑠波は王権を手にできた。それに実体はないけれど、それでも人と人とを繋ぐことは出来る。そうして何も出来ない子供だった二人は繋がったのだから。
瑠波はエピローグで王冠を手に入れる。カチューシャに付けられた薄っぺらなアップリケではなく、金属で出来た見事な王冠を。
カッツェガルデン宮に鎮座する玉座を冒涜する行為に二人は背徳を覚えたけれど、もうそれを無闇に恐れることはないのだろう。王国を王国たらしめる、女王を女王たらしめる王権は、瑠波の手にあるのだから。それはきっと瑠波が母である真理亜との間に感じていた隔絶を埋めることが出来たということであり、王国ごっこを終えて真の王位に就くことが出来たと云うことであり、それはきっと素晴らしいことなのだ。
永倉氏とうぃんぐ氏はどちらも隼人が王国を終わらせなかったことを糾弾しているが、自分は逆に、なぜ隼人は最後、王にならなかったのだろうと思う。猫庭の人々に殿下と呼ばれるようになりながら、なぜ騎士に留まったのか。あるいは、留められたのか。
「王と云うのは孤独な存在であるのだからな」
瑠波が序盤で何気なく挟むこの一言は、とても重いと思う。
先代である真理亜はどんな存在だったのだろうか。伴侶に王国に取り残され、親友にミラクルアホウとよばれ、娘に王国と同一視され、そして猫庭の民に愛された女王とは。実はこの上ない孤独の中にはなかったか。
真理亜は王国の実在を、母を、無邪気に信じる幼い娘に、王国が自分一人の抱え込む茶番であることを教えることが出来なかった。そして自分以外にそれを教える人間がいないことを分かっていて、娘に王国を継がせようとしなかったのではないだろうか。
隼人が瑠波の目に見た女王の輝きが、それに隼人が魅了されたということが、視線を交わして通じ合った間にあるかもしれない断絶が、そして隼人の瑠波を支えようという決意が、とても切ないものだと思う。
この文章を書く決意を固めた当初は永倉氏とうぃんぐ氏に対する反駁をするつもりだったのだが、結局よく似たところに落ち着いてしまった。なのでここは二人が絶賛する操についても触れなければなるまい。孤独を許さない、心優しいもう一人の女王に。
操は物語を通じて操であり続ける。それぞれが十字架を背負い悩みを抱える登場人物達の中にあって、そのあり方は異端とも呼べる。しかしそれはゆのはなのわかばであり、かにしのの美綺であり、しろくまのきららであり、丸谷氏が繰り返し描いてきた、不変のヒロイン達に連なるものだ。
そして操は、その不変であることそのものの力で、ヒロインの座についたという一点で、先達とは一線を画している。
「操はほんとうに、おひさまみたいだなって思ってたんだ」
ラスト、終わるはずだった二人きりの戯れの王国が存続する。操というおひさまにてらされて、ひらかれる。そして彼らは幸せに暮らしましたとさ、そんなおとぎ話の終わらないハッピーエンドがそこにある。それを導くのは操の変わらなさ、なのだ。
不変のヒロインは、どうしても揺らがずにはいられない主人公とずっと一緒にいられるのかと問われてしまう。不老不死の定命の存在の間の恋が悲劇として描かれるように。けれどもここでは続いてゆく王国と操とはもはや不可分で、だからこそ操と隼人はずっと一緒の未来を描いていける。
今日がしあわせなら、明日もしあわせなのだ。
作中では真理亜さんについてたびたび触れられるのだけれども、にもかかわらず真理亜さんの人となりについては驚くほど分からない。娘の瑠波ですら、女王としての真理亜さんについてしか語れないし、そしてそれは誤解に満ち満ちていた。
最後に瑠波は言う。
「我には王国が何か判っておらず、また母が残した物の大きさも判っておらなかったのだ」
瑠波は王国そのものに見えていた偉大な母が、実は自分と変わらない孤独な独りの人間であることに気づいたのではないのか。母と同じ道を歩むという選択は、その孤独を繰り返すことになる。きっと彼女はそれを理解していて、それでも彼女は迷わなかった。それが答えなのだと思う。
「人は誰もが人生の王様である」
このフレーズから辿り着くにはそれは余りにも酷な決断であるのは間違いない。
でも、それこそがこの作品の力なのだと思う。
「太陽のプロミア」を今年中に買ってプレイすることを新年の抱負としつつ筆を置く。